ウィリアム・モリスが歩んだ軌跡 vol.2

- 2022/7/14 12:00
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ウィリアム・モリスの経歴 モリス・マーシャル・フォークナー商会設立

1861年、モリスは、レッドハウスの建設に携わったメンバー、バーン=ジョーンズ、ロセッティ、フィリップ・スピークマン・ウェッブ、フォード・マドックス・ブラウン、ピーター・ポール・マーシャル、チャールズ・ジョセフ・フォークナーと、ロンドンのホルボーン(Holborn)にあるレッド・ライオン・スクエア8番地(Red Lion Square)に最初のデザイン・装飾会社 「モリス・マーシャル・フォークナー商会(Morris, Marshall, Faulkner & Co.) 」を設立しました。
モリス・マーシャル・フォークナー商会は、レッドハウスのために作られた刺繍の壁掛けをきっかけに、設立当初は刺繍製品を扱っていました。
モリスの妻であるジェーンも積極的に生産に携わり、刺繍職人として働き、会社の急速な拡大とともに刺繍部門を管理するようになりました。


モリス格子垣
作品:格子垣(Trellis)

その後、モリスは内装デザインに力をいれていきます。
1862年には最初の壁紙「格子垣(Trellis)」をデザインをしました。
この柄は現在でも非常に人気のある柄です。
正方形の格子に巻き付くピンクの薔薇のツル、小さな虫と青い鳥がデザインされています。
青い鳥はフィリップ・スピークマン・ウェッブがデザインしました。
このデザインはレッドハウスの庭に実際にあった格子から発想されたといわれています。

1862年 モリス・マーシャル・フォークナー商会は、サウス・ケンジントンで開催された『第2回ロンドン万国博覧会(Expo 1862)』に出展します。

ちなみに日本は幕末の時代。坂下門外の変、寺田屋事件、生麦事件が起こるなど激動な時代でもありました。 そのような中、駐日英国公使であったラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock)が、自身でコレクションしていた漆器や刀剣、版画、提灯、蓑笠などを出展しました。
また博覧会の開会式には、福沢諭吉ら文久遣欧使節団も参加しています。

話は戻りまして、第2回ロンドン万国博覧会で、モリスがデザインした「ひなぎく(Daisy)」の壁掛け刺繍が金賞を受賞しました。


モリスデイジー
作品:ひなぎく(Daisy)

また、ステンドグラス、絵付け家具が評価されたことで、モリス・マーシャル・フォークナー商会は活動を拡大していきます。


St George Cabinet
ロンドン万国博覧会に出典した 「St George Cabinet」(出典:ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)

1865年には、サウス・ケンジントン博物館(1899年にヴィクトリア&アルバート博物館と改称)が増設した3つのカフェスペースのうちの1つ「The Green Dining Room」をデザインします。
現在でも「The Morris Room」としてアフタヌーンティーやお茶を楽しむことができます。
ちなみにテーブルウェアはケントストアでも販売しているバーレイ社のプレート、ティーセットなどを使用しているそうです。


V&A モリスルーム
モリスルーム(出典:ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)

「The Green Dining Room」の壁面は、オリーブの枝を描いた石膏のレリーフと、野うさぎを追いかける犬の装飾に囲まれています。
モリスとウェッブが共同で手がけた天井は、幾何学模様と花の唐草模様でデザインされています。
バーン=ジョーンズは、家事をする中世の女性の姿を描き、ステンドグラスのデザインも行いました。
安らぎのある青緑色の配色は、モリスが求める自然と調和する美が表現された空間になっています。


ウィリアム・モリスの経歴 ケルムスコット・マナー

1865年、モリスはレッドハウス売却し、ロンドンの中心部にあるブルームスベリー(Bloomsbury)に転居しました。
ブルームスベリーは、大英博物館などの博物館や大学が多くあり、イギリスの文化や教育の施設が集まっている地域です。
ロセッティはモリスの妻ジェーンとずっと親密な関係でしたが、ロンドンに引っ越してきたことで、二人の仲が周囲に広まるのを恐れ、モリスはロンドン郊外に別荘を探すことにしました。
表向きはジェーンや二人の娘のためでありましたが、実際はジェーンとロセッティの恋愛関係を隠すためであったと言われています。
現代ですらありえない状況ですが、これもモリスの人間ドラマの一つとして、多くの人の興味を惹く要素となっているのかもしれませんね。


1871年、モリスは、「ケルムスコット・マナー」をロセッティと共同貸借します。
ケルムスコット・マナーは、イングランド南部にあるウェスト・オックスフォードシャー(West Oxfordshire)のコッツウォルズ(Cotswolds)地方の村 ケルムスコット(Kelmscott)にあるマナーハウスです。


ケルムスコットマナー
ケルムスコット・マナー(出典:コッツウォルズ公式ホームページ)

ケルムスコット・マナーは、1570年頃、地元の農夫トーマス・ターナー(Thomas Turner)によって建てられ、何世代にもわたって一族が所有していました。
現在は、歴史的価値の高い建造物として第一級建築物の指定を受けています。

モリスはケルムスコット・マナーに一目惚れをし、初めて見た帰りの電車の中で、友人宛ての手紙に、ケルムスコット・マナーのことを「地上の楽園」と綴ったそうです。
また「土から生えたように見える”grown up out of the soil”」とも表現しています。
マナーハウスが農家としてほとんど変わらないまま代々受け継がれたこと、季節と共にある農業と生活が一体化していること、手仕事によって作られたマナーハウスは真の職人技の結晶であること、村や周りの田園風景と調和していること、ケルムスコット・マナーは、まさに「アーツ・アンド・クラフツ運動」の発想の原点となりました。
モリスはケルムスコット・マナーの庭や周囲の風景から多くのインスピレーションを受け、そこから多くのデザインを生み出しました。
ケルムスコット・マナーは、モリスが1896年の亡くなるまで、亡くなった後は、妻ジェーン、娘たちモリス一家の憩いの場であり続けました。
次女メイ・モリス(May Morris: 1862–1938)の死後、メイ・モリスの依頼によりオックスフォード大学に譲渡されます。オックスフォード大学が一時マナーハウスを管理しますが、維持管理の問題などから、1962年からロンドン考古協会(Society of Antiquaries of London)の所属となりました。




ウィリアム・モリスの経歴 詩人デビュー

モリスは、1868年から70年にかけて長編叙事詩『地上の楽園(The Earthly Paradise)』4部作を発表し、詩人としても知られるようになりました。
『地上の楽園』は、ギリシャやスカンジナビアに伝わる様々な神話や伝説、おとぎ話から引用しています。
さらに、モリスはこの頃からアイスランドの文学に興味を持つようになります。
モリスは1871年と1873年の2回、アイスランドに旅行しています。この旅を記録した日記「アイスランドの旅(Journals of Travel in Iceland 1871-73)」では、気候、食べ物、地元の人々とのふれあいなど、モリスの鋭い観察眼が発揮された描写になっています。



ウィリアム・モリスの経歴 モリス商会設立

1874年、ジェーンとロセッティの仲も、ロセッティの精神喪失により終止符を打ち、ロセッティはケルムスコット・マナーを去り、さらに、フォード・マドックス・ブラウン、ピーター・ポール・マーシャルと共に、モリス・マーシャル・フォークナー商会を脱退します。
1875年 モリスはモリス・マーシャル・フォークナー商会を解散させ、モリスの単独所有のもとで「モリス商会(Morris & Co.)」を設立しました。
オックスフォード・ストリート449番地に店舗を構え、ジャカード織機を設置するなど活動を広げていきます。

1877年 古建築保護協会(Society for the Protection of Ancient Buildings)を設立します。
「風雨を防ぐこと以上を意味するすべての『修復』に抗議する」
「古い建物を修復するな。保護せよ」
当時、教会などの修復があらゆるところで行われていました。
そこで行われていた修復は、長い年月を経てきた建物の大部分を取り壊して、そこに修復する人の価値観で別のものを作っているという状況でした。
モリスは、修復ではなく、保護するように訴えたのです。
古建築保護協会が起こした運動は、すべてではありませんでしたが、さまざまな建物の修復や再建、取り壊しを中止させることに成功しました。
この思想は1895年に創設されたナショナル・トラスト(National Trust)に受け継がれ、今日に至っています。


モリスは一つ屋根の下ですべての商品を製造できる十分な広さの建物を探すことにしました。
1881年 川の近くで染色に適した作業場、布のプリント、織物、カーペット織り、タペストリー製作、ステンドグラス製作ができる作業場として、ロンドン南西部に位置するマートン・アビー(Merton Abbey)に工房を開設します。


マートンアビー工房
マートンアビー工房

マートン・アビーの工房は、ワンドル川(River Wandle)の清らかな軟水が流れる広い敷地でした。
1882年 マートン・アビーの工房にて、インディゴ抜染技法(Indigo Discharge)による生産を始めます。
インディゴ抜染法は、最初に全体を無地で染めた後、絵柄のパターンに合わせて、色を変えたい部分を抜き、新しい色を一色ずつ足していくという複雑な作業工程で、高度な技術と長い日数が必要でした。
モリスはアニリンの化学染料を嫌い、インディゴなどの天然染料を使って理想とする色を表現したのです。
インディゴ抜染による商品は、モリス商会の中でも高額な商品でしたが人気を博しました。


いちご泥棒
いちご泥棒(オリジナルはマートン・アビー工房において最初に作られたインディゴ抜染による作品)

ウィリアム・モリスの経歴 社会主義者として

1883年 モリスは「民主連盟」に加入し、社会主義者であることを公言します。
「真の芸術を生む知的な仕事は楽しい仕事であり、人間的な仕事である」
これに反し、「偽の芸術を生む非知的な仕事は不愉快な仕事であり、非人間的な仕事で、面倒な、不道徳な仕事である」とし、芸術と人間的労働の再生を目指して、機械化と資本主義を否定し、その再生を「社会主義」に託したのです。
そして手工業を奪った機械による横行、芸術性の失われた俗悪商品の普及、権力を持ったお金持ちによる芸術が占有、を警告したのです。
芸術家として、起業家としてもすでに著名人であったモリスのこの発表は、上流階級や社会的地位のある人々、富裕層から反感を買い、批判されました。
しかしモリスは、理想の実現には社会変革が必要と考え、政治活動にも積極的に参加しました。


1884年 社会主義同盟を創設します。モリスは社会主義同盟機関紙『コモンウィール』(Commonweal)を創刊し、『ジョン・ボールの夢』(The Dream of John Ball)などの連載をスタートさせました。


コモンウィール
コモンウィール(Commonweal)

1885年 社会主義運動が活発になっていきますが、同時に警察のよる社会主義者に対する弾圧も強化され、逮捕者も多く出ました。
モリスも街角に立って演説し、罰金で済みましたが逮捕されたこともあります。
それでも、社会主義会議に出席、講演活動、機関誌による連載を続けました。
1890年 「ユートピア便り」を執筆します。
「ユートピア便り」には、透き通ったテムズ川、煤煙もない澄み渡った空、自由な社会、楽しみながら働く、物には値段がなくお金すらない。それぞれが必要なものを好きなだけ選べる社会。
モリスが理想とする200年後のロンドンの姿が書かれています。


ウィリアム・モリスの経歴 アーツ・アンド・クラフツ運動

レッドハウス建設、モリス商会設立、ケルムスコット・マナー、マートン・アビー工房での生産など、これまでのモリスの活動は、彼が崇めているラスキンの思想を実践しているものによります。
産業革命により大量生産された粗悪な商品が広まっている状況を批判、中世の職人により生み出されていた美しい手工芸の復興、労働者の日々の労働のうちにこそ美の喜びは生まれていかねばならないとし、生活と芸術を統一することを主張しました。

1880年代になると、ウィリアムモリスに影響を受けた多数の芸術組織によって、アーツ・アンド・クラフツ運動へと発展していきます。
例えば、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の設立、さらに1890年代に入ると、建築家チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh:1868年-1928年)がスコットランドでアーツ・アンド・クラフト運動を推進し、アール・ヌーヴォーのグラスゴー派として活動しました。


チャールズ・レニー・マッキントッシュ
チャールズ・レニー・マッキントッシュ

ベルギーやフランスでは、アーツ・アンド・クラフツ運動の思想が鉄やガラス中心とした新しい素材を使いながら社会や生活に芸術性を取り戻そうという動きにつながり、アールヌーボーとして発展しました。
また、グスタフ・スティックリー(Gustav Stickley 1858–1942)は、モリスの思想を 北米に広めます。そしてそれは、建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wrig:1867年-1959年)、グリーン兄弟(Greene & Greene)にも影響を与えました。
アメリカのロサンゼルス郊外にある、グリーン兄弟が手掛けた「ギャンブルハウス(Gamble House)」はアーツ・アンド・クラフツ運動の最高傑作建築の1つと言われています。


ギャンブルハウス
ギャンブルハウス

日本では柳宗悦もモリスの運動に共感し、ケルムスコットの地を訪れたり、モリスに関する文章を執筆するなど、その後の「民芸運動」に大きく影響しています。


ウィリアム・モリスの経歴 最期に

1896年10月3日 ウィリアムモリスは62年の生涯を閉じました。
「地上の楽園」と呼んだケルムスコットマナーがあるケルムスコット村のセント・ジョージ聖堂の墓地に埋葬されました。
モリスの座右の銘であるSi je puis=If I can「もし私にできるならば、、」
モリスはその言葉を胸に、思い描いた理想を求めるため、生涯さまざまなことに挑み続けました。
その功績は非常に大きく、モリスの自然と調和するデザイン精神は、現代でも息づいています。



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